深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義6. 球磨先人の知恵と偉業

6-8. 深田銅山

 深田銅山は球磨郡あさぎり町深田西の標高、約200mの銅山川(どうざん-ごう)沿いにある。深田銅山の鉱床は四万十累層群中にできた層状含銅硫化鉄鉱床と呼ばれるものである。ここの近くでは五木村の五木銅山、相良村の山陽鉱山、四浦鉱山、山江村の大平鉱山など、南にほぼ2列になって分布して採掘されていたが、現在はすべて閉山している。

 図1が往時の深田銅山である。この写真は、あさぎり町の免田下乙にある弥生時代から古墳時代前期にかけての遺跡、木目遺跡(もとめいせき)の発掘20周年を記念してフォトコンテストが行われ、その特別部門「む写んよか!レトロあさぎり」で見事に最優秀賞に輝いた田山 哲也さんの「銅山採掘場」というレトロ写真である(詳細は、平成15年8月24日のあさぎり町HPをご照覧いただきたい)。男性は地下足袋に脚絆(きゃはん)姿でスコップを持ち、女性はモンペ姿で手拭いの姉さん被りである。 図2は、今でも鉱山の施設の基礎土台が山林の中に散在し、均(なら)されてはいるが往時の精錬場跡が確認できる。

採掘場 遺構
図1. 往時の銅山採掘場 図2. 木立の中の銅鉱山の遺構
(写真1の出典:あさぎり町深田の田山哲也さん)

 深田銅山の沿革は、三井金属鉱業株式会社の資料に基づく「深田村村史」よると以下の通りである。銅山は宝永元年(1704年、江戸時代第5代将軍、徳川 綱吉の時代)、相良藩によって発見され、享保20年(1735年)まで稼業されたが元文5年(1740年)には休業となった。明治14年(1881年)には、中球磨地方を支配し相良宗家をしのぐ勢いを持っていた豪族を祖先とする上村氏によって鉱山は再開された。

 当時の上村氏は麓城(上村城)を拠点として、球磨中部や白髪岳北山麓一帯を支配し、相良氏当主を輩出するなど、その力は相良宗家をしのぐ勢いがあった。明治25年(1892年)には岩屋鉱山となり、大正2年(1913年)には最盛期を迎えるが終戦の年、昭和20年に閉山となった。しかし、昭和26年(1951年)、三井金属鉱業株式会社によって深田鉱山として再開されたが、昭和29年(1954年)に採鉱は中止され、昭和49年(1974年)に登録は消滅し、鉱区も放棄された。この間に積年の鉱毒は累積し銅山川に流出し続け、魚や生き物の棲めない川となった。この鉱毒問題について、熊本大学の小松裕さんは、当時、深田村の文化財保護委員を務められた深水 一雄さんが語られたエピソードを紹介している。

 「昭和の初めの頃、夕立があると真っ赤になった銅山川の水が球磨川に流れ込み球磨川の流れに赤い筋状の帯ができ、鮎が狂ったように死んだ。だから、当時、子供たちは夕立があると鮎が死ぬのを待ってつかまえるのを楽しみにしていた。」

 銅山川の水を灌漑に利用していたので、田圃の被害もあったのに地域住民からの苦情や反対運動は起こらなかったそうである。それは銅鉱山の存在によって受ける恩恵が大きかったからだそうで、不安ながらも雇用や町の活性化には不可欠と感じる原発設置地域住人の心境とよく似ている。岩戸景気を見込んで昭和57年(1982年)には鉱業権の出願があったが、鉱毒による環境破壊が懸念され承認に至らなかった。

 この鉱毒の問題のほかに、この銅山にはもう一つ余り知られていなかった事実がある。それは中国人や朝鮮人の強制連行や強制労働の問題である。昨年3月、中国人強制労働者のうち生存者の約40人は三菱マテリアル(旧三菱鉱業)と日本コークス工業(旧三井鉱山)を相手に、1人あたり100万元の賠償金とともに日中両国の主要日刊紙に謝罪声明を掲載することを求めていた。これに対して今年、三菱マテリアルが自社の強制労働に動員された中国人3765人に対して謝罪し、基金形式で被害者1人あたり10万元(約200万円)の補償金を支払うとの報道があった。

 現在の深田銅山跡は、往時の石垣や建物の土台など山林・草木の中に隠れているが銅の選鉱・精錬場所は更地となっているが、表面にはいまでも精錬滓が浮き出ている。岩塊を持ってみると重みがあり、今でも地表面は高濃度の金属成分を含んでいることが分かる。鉱山から6キロ以上も離れた岡原北地区からは図3に示すような鉄分を多量に含む非情に重い「からみ」と称する精錬時の残滓が幾つも発見されている。言い伝えによると、石垣や重石として利用していたとのことである。

からみ 地蔵
図3. 銅精錬残滓の「からみ」 図4. 結婚式にお地蔵さんも出席
(重石として利用されていた写真1の資料提供:唐津 平一さん)
(写真2のイメージ図原典:WECOサイト:https://weco.jp/)

 筆者の生まれ育った球磨郡には変わった習わしがあった。結婚式の祝宴に地蔵さんが出席するのである。そのイメージが図4である。

 地蔵さんは近隣の若者が路傍に立つ地蔵さんを持ち込んで祝宴儀式のある家の縁側に置く(深田では縁側ではなく座敷にまで運び入れるという話も聞いた)。すると家人は喜んで焼酎をお礼代わりに差し出す。新しいお嫁さんはお地蔵さんに「よだれかけ」を作ってかけてやり、元あった場所に返すという風習である。
この習わしの元は銅山のあった深田地区の結婚式披露宴での奇妙な出し物「地蔵出し踊り」にあるようである。筆者もこれに似た習わしを見たことがある。お地蔵さまを担いだ数名がユーモラスな動きで披露宴の座を回るもので、蒸篭(せいろ)を持った者は蒸篭を高く持ち上げ、「モチアゲテ セ~ロセ~ロ」などとはやしながら披露宴の座を回り地蔵さまを新郎新婦の前にご鎮座させ一緒に祝っていた。「せろ」とは方言で「しなさい・やりなさい」の意。この祝宴参加が銅山で働かされていた労働者が故郷での祝宴を思い出し、形だけでも祝いに参加したいという望郷の念から始まったものであることは間違いない。

 山口県の萩市にもよく似た風習があるそうで、花嫁が早くその土地に腰を据えられるようにと地域のお地蔵さまを神輿のように担いで持ち寄る風習があるとのことである。そのお地蔵さまは式後、新婚夫婦などの手により、地域に返されるが、多くのお地蔵さまが持ち寄られた場合は、元の場所が分からなくなることなどは深田の場合と同じであるが、持ち込んだ人のお地蔵さんに託する願いは全く異なっている。山口県萩市と球磨郡あさぎり町深田地区との距離は現在の最短高速道路でも約340キロである。これほど離れた地域に同じような婚礼祝いの習わしがあるのは不思議である。この習わしの伝承者は鉱山で働かされた強制的労働者ではなかったかと筆者は思う。

 なお、当時の球磨郡にあった主な鉱山は、球磨郡相良村の銅・黄鉄鉱を産出した三陽鉱山、五木村の銅やマンガンおよび鉄鉱石を産出した五木鉱山、大平銅山、新五木鉱山、長者鉱山、平野鉱山、中道鉱山などがあり、郡内では五木村が最も多くの鉱山があった。当時の深田村には先に述べた深田銅山があり、明治22年(1889年)当時の多良木村には久米鉱山があり、アンチモンなどを産出したとのことである。

            

↑ 戻る 

談義6-7へ | 目次 | 談義6-9へ